僕はこの海を忘れない

ねぇ、近藤くんさ本当にこれで良かったのかなとか思わない?

怖じ気づいた?

ううん、そうじゃないの。ただ、その決断に迷いはないのかなって。

ないよ。あったらこんなこと考えないし。美島さんだってそんな気持ちでここにいるわけじゃないでしょ。

うん。後戻りなんて私たちには許されない。

許すとかじゃないのか、それすら存在しないのか。

後ろ髪引かれてるように見えるけど。

もう決めたんだよ?でも、現実味が増してくるとどうしてもね。

その思考回路、とうの昔に切断されてるみたいだ。なにもないな、僕は。

私も早く、切っとけば良かった。

それはやめた方がいいんじゃないかな。

どうして?

今の君だから、僕とこうしているわけでその君が存在したとしても僕とはこうしていなかったんじゃないかな。

そういうものかな?

そういうものだよ。

ふーん。でも、その私が存在していて近藤くんと関わりがなかったとしたら違う誰かとこうしているからいいんじゃないの。

いや、それはないと思う。

何で?

美島さんとだからこうしているんだよ。他の誰かは誰も該当しない。

変なの。私たちはお互い自分自身のことですら曖昧なのに。まぁ、その感覚分からなくもないよ。

きっと精神の悪足掻きだろうね。

吊り橋効果と同じ状態の脳内分泌が誤解しているのね。

僕らは所詮、人間だ。自然物の機能だって知り得る範囲の容量がなければ似たようなものをあてがうさ。

いっそ恋なら、なんて思ってしまった私は浅はかだったりする?

理由を求めることに否定はしないさ。扱いやすい感情。即ち恋というものが一時でも美島さんの感情面積を占めたのなら確かにそれはそこにあるんだろう。むしろ、光栄だ。

良かった。なんだか安心する。これで名残惜しくなったりはしないのにね。

口述の意志疎通など反古でしかない。

だからこそ、僕らには必要なんじゃないかな。意味を手探りで欲しがった分、無意味を確固たるものとして平然と受容しなくてはいけなんだ。

それもそれで贅沢な気がする。そんな権利私に、私たちにあるのかな。

権利の有無について考えるのは野暮だよ。

そもそも存在しないんだ、権利なんて。そこに在るものを手に取るだけ、僕たちは。排泄と吸収の循環を慣れとして扱われているんだ。

そっか、少し期待しすぎたみたいだね。ううん、分かっていたけれど特別を味わいたかっただけなの。ごめんね。

いや、謝る必要はないんだけど、あと数時間の生命だし。

これくらいは許してよ神様。なんて今まで過ごしてきて何回、いいえ何百回祈ったんだろ。もうその言葉に意味を感じなくなるくらいにはいい続けてきてしまったんだろうなぁ。

それって一生のお願いもそうだよね。一生、一生言いながらどれだけの行いに一生を懸けてきたのか浅はかで無責任過ぎる。ただ、僕もその一部なんだと自分を否定している気さえする矛盾が寒しいよ。

うん、本当に。透明で遠くまで見渡せるような海の上にいたはずなのに、いつの間にか小さな貯水湖になって遠方には靄がかかり、透き通った水面はいつしか白濁した水面になってしまった。

水中で泳ぐ魚も見えない、地平線から顔を出す太陽も見えない。見えないからといって、見ようともしなかった。

だって、見えないことが普通だと思うようになっていたから。もはや、それが限界域だと肯定していたの。

たまに魚を釣り上げる者を変人だと煙に巻いて、日の光を求めて走り去る者を特別だと崇拝の的にした。

透明な水面を見たことのない私たちにとって濁った水面は当たり前で、これ以上に透いている事があったなんて作り話の一部としか相容れなかった。

それがたまらなくつまらなかった。普遍的すぎて酷くちっぽけに感じて、だからどうしたって嘲った。

つまらないけど、透明にはならない。透明にはなれない。そもそも、透明ってそんなに羨ましいこと?

僕は全然、透明だろうが濁っていようが興味はなかったよ。つまらない日常ルートを回避できれば何でも良かった。

近藤くんらしいね。なら、今は回避できてるのかな?

出来てる。とてもね。美島さんのお陰でね。

透明だった水面に思考を消費するより白濁したあとの水面をどう面白くするかを考えたの。つまらないが優勢で周りなんてどうでもよくて、魚の見えない足下を極彩色に汚した。

一気に絢爛になった。靄さえも華やかに思えた。魚が見えるか見えないか可能性の比較も、もう不要なこと。

見えない。イコールでいないものだから。

同時に気付いた。

人のえぐさに。

刹那確信に変わった。

これ程までに残酷な常態があるのかと。

そう、系統樹のように一つの感情からさらに新しい感情が生成されては主張し、揺れて鎮まって微かな残片を蓄積していくばかりだよ。

喜怒哀楽とはよくまとめたものだよね。

そこから滲み出すものこそが人のえぐさの個の根本だ。

なんだかみえちゃうのが怖い。

でも、美島さんは美島さんだけじゃない。僕もみえてた。

うん、本当は靄の先も水の中もみえてた。目で見えなくとも。

だけどそれは普通じゃない。怖いから無知を続けて当たり前にすがった。

そして、大蛇が足元から頭まで纏わり付いていようとも甲冑で身を包んでいようとも、玄関の戸を全開にしていようとも類は同じ。

そこには必ず虚無が満ちている。

取り払う以前に産まれたときから共に育まれ死を迎えるそのときまで、いや、幾久しくも付き合うことになるんだよね。

僕らはそれに目を向けなかった。だって真正面から向き合えば飲み込まれてしまう戦慄を想像しただけで飲み込まれると思うくらいだから。

思うだけならまだいいけど、それが発端となって悪魔が憑いたと喚く人は数知れずよ。

僕らが極彩色に水を一転させなくてもきっと彼らが全面を華やかな一色に染めてくれただろうね。

その分、輝く船の灯火はいくつ消えていくのかな。

さぁね。ただ、足元には船の代わりの光がたくさん漂っている。僕らの行く手を阻むように。

綺麗ね。船の光なんてどうも思わないのにこの光はひしめき合って太陽みたい。

太陽か、じゃあ、あの船は月かな。

そうね。全く、滅茶苦茶だわ。

あの船はあんなに動き回れるのに、薄暗い靄の中を今にも消えそうな灯りで錯綜する。この光はこんなに動くことが出来ないのに、共鳴して余裕を作ろうとしない強さと美しさを持っている。

私たちは今どこにいるかな。

さぁね。

あ、でもさ、私、一色は嫌だ。

つまらないから?

違う、一色ってさ、ずっとその色なんだよ。

風化しても同じように一色に染まってくの。

多少の誤差はあってもみんな同じになるの。対等。平等。均一。公正に。

うん。

それって平和的なんだろうけど、何をどうしても他の色が染みたくらいじゃ敵わない。もし、灰褐色が大半を占めていたなら、黄色一滴じゃ一瞬で、そう、また、ないものになるもの。

なるほど、ついでに上でも下でも、横でも関係なくなる。マイナスはプラスと同義とされるわけだ。

ね、嫌でしょう?世の理を私一人では到底変えることは出来ないし、抗えないだろうからせめて私の周りだけでもそうはしたくなかった。

なら美島さんは、たくさんの色で溢れるようにとても頑張ったんだね。

大それたものではないけどね。

美島さんは優しいね。息苦しいくらいに。

駄目だよ、優しいって。結局、私が快適に居られるようにするための身辺整理なんだよ?

それでついででもさ、美島さんと同じように快適になった人はいるでしょ?しかも同じには染まらない。そんな不公平が幸福となるんだよ。

よく言うよ、近藤くん。まるで宣教師ね。

末法濁世、善悪老若男女蔓延る死屍累の頂上で満身創痍の偶像が釈迦釈迦唱えることもせず僕に救える筈もない救済を求めてきたからね。

そんなことないよ。一人一人その人にとって救いならば近藤くんの行いは確かに救いだよ。

美島さん、言ったよね。美島さんとだからこうしてるって。一人一人って君以外はあり得ない。

でもさ、もしかしたらあるかもしれないじゃない?

僕らにこの先はないよ。

じゃあ、来世とか!

可能性が低いというか掴めないよ。

まぁ、いいじゃない、そういうことでさ。

見えることが怖いなら、見えないことは怖くない?

そうだなぁ、見えないなら怖がる必要もない。未知だもの。思い込みって自己暗示だしね。

ふーん。案外僕たちも滅茶苦茶かもね。

そうね、曖昧で滅茶苦茶。心地いいほどに最悪だね。

やっぱさ、美島さんの言うとおりかもしれない。

ん?

いっそ恋ならなんて。

近藤くん、狡い。貴方は冷徹でいてもらわなくちゃ。

うん、僕はそうでなくちゃいけないんだよね。

私も思ったよ、いっそいや、そんな曖昧なものじゃなくて、これが恋なんだって。

今さら、今更なのに。御託並べても上手くいかないね。

今までの私たちを矛盾して、ないこれからを見つめるなんて滑稽よね。

観衆はいない。いいさ、したい放題で。終わりなんだし。

うん、うん。今ね、私、最高に居心地が悪いの。たまらなくそれが嬉しいの。

少しは見ても怖くなくなったかもね。

私が近藤くんに言わなければ会うことなんてなかったって分かってる。

僕も君に言われないと会うことなんてないからね。

嫌だなぁ、近藤くん。何で、近藤くんなんだろ。理不尽。

それも世の理さ。

嫌だなぁ。

やっと人間らしい本音が出たね。

近藤くんだって少し位は人間味あってもいいのに。

冷徹であれって言ったのは美島さんだよ。

じゃあ、じゃなくていい。

公私混同。

堅いこと言わないで。

美島さん、極彩色に染めても染めた分だけどんどん混合して濁りは増していく。君の嫌いな一色になってしまう。

知ってる。だから、貴方に頼んでるんだよ。一色の中でも近藤くんはずっと染まらないだろうから。優劣も循環しない、深いか浅いかも考えられない。色の移り変わりもしない。だから。

僕は君に近付けない、嫌われる対象だと思ってた。

広義ではね。ただの周りが掲げた理想論。

近付かないようにしてたのは僕。嫌うように背けてたのも僕なのに。

まぁ、当たり前だからね。

でも、話しかけてきたのは君の方だった。暗黙の禁忌を意図も容易く破った強者だなんて思ってた。

その空気感好きじゃなかったの。

太陽は眩しく照らすだけじゃなくて、苦しそうで今にでも爆発してしまいそうだった。

やっぱさ。

なに?

美島さん。

ん?

好きだよ。

うん。それだけでいい。

これだけがいいんだ。

だって、私たちはもう。

美島さん、じゃあね。

ばいばい、近藤くん。

美島さん、あの時言った言葉が眠らせてならまだ、ない未来が少しはある未来になったかもしれない。

なんて、そんな可能性、僕らには不要なものだったね。

近藤くん、私を殺して。

僕は君を黒く染められたかな。