鼻汁とともに流れた夢

何をしたわけでもなく、何でもできる時間があるのに、何もしなかった精神的徒労感だけが残る、後味のわるい連休明け。その長いようでみじかかった晩春を終始貫いた、快晴が今だ続いている。同じ天気、同じ時間というのに、こうも違うのか。何もしなかったにしろ、まったりとした怠惰な午前が懐かしい。平素理由にしている「睡眠不足」が言い訳にならないくらい潤沢な眠りの後、それでもスッキリしない頭をのっけた頸を鳴らしながら、ビフォーヌーンのワイドショーなどを見ていた。普段見ない時間のテレビには普段気にもとめない世界、お年寄りの気がかり、主婦の不平不満、聞いたことがあるような街にあるというスイーツ店やらがアナウンスされていた。世界のどこかで確かにあるが、自分自身との関わりが感ぜられないトピックス。そういう意味では遠い場所のテロやら大災害やらも同じ。そんな情報を一方的に浴びせられるにこの季節の午前というのは頃合いがいい。

それでも1、2日は澁谷を徘徊した。両日とも目的地はそこではなかったのだが、なんとなく行き着いた。そんな感じで流れていくと、理由なしに人が集まる場所が世界にあるということを腑に落とすことができる。まるでそこに集う人々の事情を知ったかのがとくになり、ひとりで行ってもなんとなく、あたりの人々と、あたかも繋がっているかのような、心地良さを感じる。どちらかといえば会話を含めて他者とのコミュニケーション能力が劣っており、その試みに負担を感じてしまうほうなのだが、無言での繋がりというのは心地良かったりする。無言の繋がりというのは繋がりともいわないのか?まあそのあたりは、適当に解釈しておけばいいのか?

この瞬間にも、同じように憂鬱になっている人というのはこの国に何万人もいるだろう。あちこちで諍いが勃発し、居眠りが横行し、電車止まる。春先の慌ただしさ、GWの自由さ。良いも悪いも我を忘れさせてしまうような目まぐるしさが去った後、なんとなく己に向き合ってしまう。なんとなくソコに集っているリアルに繋がりがある人々と会話によってコミットする。なんて面倒臭いんだろう。リアクション、伝えること、伝えたとき薄いリアクションを浴びせられたときのサモしい感じ。すべてが面倒臭い。極限まで仕事を分業化され、ここまでハイテクノロジーなツールがある世の中で、それでも人は人と繋がる。繋がらねばコンプリートできないのか、単に繋がりたいだけなのか。きっとダレかから称賛やら評価やらコメントやらを熱望する、一部かまって欲しくてたまらない人々に引き摺られているのだろう。

まあ、しかたがない。炊飯、旅費精算から国防まで。本来自分でやらねばならないことを、ダレかにお願いしているのだから、諦めるべきなのだろう。幼少の頃はよく、木こりになりたいと思っていた。殺人的に問答無用な花粉症が発症してしまったため夢は潰えたが、それまでは、かなりマジにそのための準備をしていた。近所の山(おそらく私有地or入会権設定地)を歩いたり。ホームセンターに行って鋸を物色したり。鼻汁とともに流れクシャミとともに吹き飛んで行った懐かしい想い出。